夏の終わりのハーモニー

前回の続きです。

僕もブログを始めてだいぶ心が整理されてきました。

かさぶたを剥ぐような作業だけど、まだ痛みを感じていたい。

今週、今日を入れて後4日後には母の49日を母の故郷でやるために九州に飛ぶ予定だ。

しかし、台風が来ているらしいのが少し不安だ。

 

 

葬儀屋さんと弟の自宅に着き、葬儀屋さんは手際良く枕飾りを作ってくれた。枕飾りの一通りの説明をし丁寧なお悔やみを言ってくれ帰っていった。

僕はさっそく線香に火をつけりんをならして手を合わせる

嘘だろ、信じられないよ。こんな光景が現実のものとなるなんて。とっても悲しくて寂しくてごめんなさいって気持ちしかなかった。葬儀屋さんにあと、準備するものありますかって帰り際に聞いたらお花を飾った方が良いですよ、ということだった。

僕は人生で花を欲しいと思ったことが無かった。

かろうじて過去に2回くらい母の日のカーネーションを買ったぐらいかな。

ただ、この時は今すぐとにかく早く、1秒でも早くお母さんの枕元にお花を飾ってあげたかった。

寂しく旅立ったお母さんにこれ以上寂しい思いをさせたくなかった。

ケータイで近くのやっている花屋さんを探したらどこも9時や10時からしかやっていない。

前の日の1時から起きていて何も食べていないので、無理矢理にでも何か食べなきゃって思って花屋さんがあくまでカロリーメイトとパンとコーヒーを買って一度帰った。

この日が1番、いっちばん辛かった。外に出て買い物をしている時なんかは一応他人の目を気にして多少は紛れるんだけど、何かうまく言えないけど何かするたび、何か買う度違う方に気持ちを一度向けるとこっちに再び気持ちが帰ってきた時とても辛くなったのを覚えてる。

レジでお金を払う時、少しでも小銭を減らすために細かいお金を数えて払い終えてふとまた次のことへ向かう時、あぁ、お母さん亡くなったんだよなぁって気持ちがうわぁってなる。

街中を歩いてると本当にみんないつもと変わらない生活をしていて、自分だけお母さん昨日死んじゃったんだよぉ、どうにかしてくれよ。って気持ちになる。

そうこうしている間にお花屋さんが開く時間になり、足早に花屋さんに向かい、さっきケータイで調べたフラワーアレンジメントというものを買いに行った。

なんか、どう注文していいかわからなくて、なんかお祝い用だと思われたら嫌だなとか思って。

だけど花屋さんは心得たもので、恐る恐るお供え用ですか?と聞いてきた。

そっか、お供え用と言えばよかったんだと気が付いて。

お花は5000円もした。価値を感じないものに払う5000円はすごく高く感じるものだが、この時は立派なお花が買えたことに喜びを感じた。

お母さんが生きている時、5000円もするお花なんてプレゼントしたことがない。

なんだよ、死んだら5000円惜しみなく出せるんだったらなんで生きている時にお花を部屋に飾ってあげなかったんだろうなんて考えて泣きながら弟の家に戻ったよ。

なんか葬儀屋さんの説明によると、今の時代はお線香は絶やしてもいいみたいで意外だった。

昔は人が亡くなるとみんな集まってお通夜まで交代でお線香の番をしていたけど、今は1人か2人で寝ずに火を使うと火事の可能性もあるから推奨してないらしい。

妻が留守番をしていてくれた。

そうは言っても僕は線香を絶やしたくなかった。お母さんの供養に少しでもなるのならいくらでも炊いてあげたかった。

お母さんの枕元にお花を飾ると部屋がパッと明るくなった。この時本当にお花に助けられた。

花がこんなに人の気持ちを癒すなんて。ただ在るだけで人の寂しさを救うというか。存在が励みになる。

 

弟の部屋では妻と2人言葉が出なかった。

なんか今回人の体って本当によくできてるなって思って。

妻と全然食べたくなかったけど買ってきたパンとカロリーメイトを無理矢理詰め込んだらお腹が満たされるのと比例して悲しみが込み上げてくるのだ。

思うに、辛いことがあるとご飯も喉を通らないっていうのは喉を通しちゃダメですよ、今胃を満たすと悲しみに潰されますよって体が教えてくれてるんだと思う。

空腹の時は無意識にそっちに気を取られていて悲しみに向ける神経が少ないんだと。

 

そして腹を満たしながら親戚や父親に連絡を入れた。

この時も自分の言葉で母の死を告げると再認識してとても悲しかった。

そんなこんなで弟は仕事から帰ってきて線香をあげてお母さんの遺体に手を合わせて静かに泣いていた。

弟は大きな仕事を終えて帰ってきて疲れ切っていた

 

弟と交替で僕はこれからしばらく忙しくなるであろうからと、着替えと身の回りのものを取りに家に帰り、妻も家に置いてきた。

この時、子供と対面したのだが、無邪気さが辛かった。

 

そしてお母さんの枕飾りの足りないものを買って弟の家に行った。

弟はスマホで夏の終わりのハーモニーを流した。

僕は初めて聞いたんだけどこの場にすごくマッチしていた。以後頭から離れない曲となった。

なんか“夜空をたださまようだけ〟というのがお母さんっぽくて切なかった。寂しかった

 

弟も僕も口数少なく横になり、全然眠れる気がしなかった。

もうすぐ24時間起きているくらいの時間になる。

僕としては寝たくなかった。なんか夜中に起きて再びどん底を味わうのが嫌だった。

弟にも寝てほしくなかった。なんでもいいから話し続けたかった

しかし、弟は次の日もまた仕事があり、少しでも寝なきゃもたないのだろう。

とにかくタバコを吸い続けて線香を焚き続けて。

そうこうしている間に僕もいつのまにか眠りについていた。

そして翌日弟は早くに出かけていった。今だからいうけど本当に1人になるのが怖くて。僕はそういう人間なんだ。この時お母さんが亡くなって初めてお母さんの遺体と2人っきりになってじっくり顔をみた。

 

僕がこの時すごく考えたのは、やはりお母さんの最後の最後にどんな気持ちで亡くなっていったのかってこと。

寂しかっただろうな、悲しかっただろうな、僕のこと弟のこと恨んでるかな…

今でも考えると申し訳ないし、後悔している。

ごめんね、本当にごめん。

前回の本当に葬儀会社の安置室に連れて行かなかった理由というのが、これから約5日間お母さんと過ごすことになったから。

僕にとってこの5日間は本当に本当にかけがえのないお母さんとの大切な時間になった。

一般的に人が亡くなると2日後には火葬までするらしい。

僕の場合はお母さんに最後に会ってくれる人が来るのが少し後で、その日の次の日だと火葬場が埋まってるということで5日後になったんだけど、本当に良かった。

2日じゃあ全然足りなかった。

お母さんと弟と3人でこんなに長い時間を過ごせたこと本当に久しぶりだった。とっても幸せだった。

 

 

 

 

とにかく忘れたくない2

前回の続きです。

僕は家族がいます。妻と子供と妻の母と4人で暮らしています。

なので家に帰ると悲しんでいる暇もない。

子供と遊んでご飯食べてお風呂に入れて、明日の仕事の準備をして23時前には布団に入って寝てる。

それとは真逆の生活をしているのは弟。

2dkの戸建ての賃貸で母と暮らしていた。

ただこの1年くらいは仕事で出世して責任のある立場になり母と自宅で毎日過ごすのは厳しくなり、やむを得ず隔週でショートステイに預けたりしていた。

この辺りの話は弟の仕事にも影響しそうなのでおいおい話していきたいと思うが、お母さんとの思い出が詰まった部屋で遺骨とお花がある部屋で生活している。やはりたまに会うと弟の方が母の死を乗り越え、前を向いて歩き始めている感じがある。

家で母の遺骨と遺影と向き合い内省を深め気持ちを整理できているんだなと。

僕はブログに残すことで整理しようと思う。

 

あの日の続き

 

施設に着いて母と対面し、いくらもしないうちに警察が来て、別室で話が聞きたいと言われ、相談室みたいな所で制服を着た若い警察官と話をした。

なんてことない住所や名前仕事等を話し、最後に「すみません、お母さんのご遺体を調べさせてください」と言われ、まだ何も気持ちも整理できてなく動揺しているままああ、はい、みたいな言われるまま承諾した。

この時僕はてっきり司法解剖するのかと思った。

しかし警察官が何度か出て行った時に弟が「仕方がないんだよね、亡くなったのが施設だと検死はしなくてはいけないんだ」と言われ僕もそうだよな、施設側に落ち度がないとは言い切れないし、つい数分前に人生のどん底を味わったばっかで、何を聞いても言われるままにするしかなかった。

結果を話すと司法解剖はされなかった。

いつもそうなんだけど、僕はなにか想定外なことが起こると咄嗟にとんでもないことを口にしたり行動したりする。よく考えることをやめてしまう。

本当に司法解剖なんかされなくてよかった。

亡くなって間も無く身体に刃物を入れられるかもしれないことをよく考えずに流されるまま承諾したんだと今から思うと怖く思う。

なんか、僕に電話をかけてきた時から弟が僕より平静を保ってたのがすごく感心したのを覚えてる。

弟は介護職で、こういう瞬間を少なからず経験しているのからなのかなとか。

この時に僕たちに訪れた体の変化が凄かった。

まず、とても、とっても喉が乾いた。喉が乾くくせに小便が止まらなかった。多分1時間のうちに500のペットボトル2本は飲んだと思う。多分それ以上。

トイレも20分に一度は行った。ここが施設じゃなければもっともっと行ってたと思う。

それにタバコ…

止まらなかった。一本吸ってもすぐに吸いたくなり、iQOSマルチを持ってきて本当に良かったと思った。

施設にいた警察官は一通り話を聞いたら後は検死が終わるまでお待ち下さいということだった。

何度か施設の相談室と外の駐車場でタバコを吸って戻るというのを繰り返した。

この時僕は何故か無性に無性に線香の匂いが嗅ぎたくなった。煙いくらいに線香を焚いてお母さんに届けたかった。1分でも早く線香に火をつけたかった。

人間の本能で心が落ち着く香りなのか、とても不思議だった。

辛かったなぁ、、本当に。これまで何度か絶望した瞬間ってあったけど、後にも先にもこれほどの絶望なんてないと思う。

酷だよね、こんなに辛い瞬間をほとんどの人間は一度は味わうなんて。みんな頭では分かっているんだ。何年も何百年も前から人はこれを繰り返してきてるんだ。って。今まで僕は深く考えないようにしてきた。辛いから。この時はお母さんの死を乗り越えて前に進むことなんて1ミリも考えられなかった。

今でも少しこれから僕がどんな働きをしても、世の中のお役に立つ事をしてもお母さんに報告できないなんて虚しいじゃないかって考えてるよ。

こんな辛い瞬間をみんな迎えるんだ、経験してる人もいるんだってすごいことだよね。

それに、僕には特別な事情がありお母さんに会えない時間があった。それなのに37年しか一緒にいられないって短すぎないか。これからこの倍くらいの年月をお母さんがいない世界で生きていかなきゃいけないって辛すぎねえか。

お母さんには沢山迷惑をかけて悲しませてきたのに。誰よりも真っ直ぐ真面目に生きてきたお母さんが1人で寂しく旅立っていって。本当に自責しかない。

 

僕は長男。この後の事は僕がしっかりしなきゃと最後の責任感を振り絞り、仕事場に連絡を入れ僕が家を飛び出す時に起こしてしまった妻に連絡を入れた。

お母さんが亡くなった事実を文字や言葉にすると追い討ちをかけて辛くなった。もう知っていることだったけど視覚聴覚で再確認すると心がズキンズキンと痛かった。

僕が家を出る時妻は何時になってもいいからどうなったか連絡ちょうだいって言っていた。

お母さんが亡くなった事実だけを泣きながら伝えると妻から私も明日から仕事お休みとるからと言われ心底心強かった。

こういう時にその人間の心意が分かるというか。すごく嬉しかった

 

弟は詳しくは書いて良いのかわからないのでぼやかしますが、どうしても仕事を休めなかったのだ。それもあろうことかこの絶望と正反対の不幸とは真逆の事をテンションMAXで盛り上げないといけないという仕事だったのだ。

僕は驚いた。まず僕だったら行けないだろう。本当に尊敬する。

弟の数時間後に控えてる大仕事を想像すると本当は今だけは絶対に片時も1人になりたくなかったのだが、女々しく1人にしないでと言いたい気持ちを兄のプライドとわずかな責任感で精一杯カッコつけて「後の事は大丈夫、任して」と言っておいた。

 

しばらくするとさっきの警察官がきて、終わりましたと。部屋に通され再びお母さんと対面して、後はかかりつけの医師の検死が終わればお母さんはお家に帰れますと言われ、警察官にお礼を言って、弟は数時間後の仕事に備え一度自宅に戻ることにし、僕は妻を家に迎えに行くことにした。

この時施設の職員さんから、先生は4時30分頃になるそうなのでそのくらいには来てくださいと言われた。

まだ暗い道を情けなく車で自宅に向かい、家に入ると妻は支度が終わってて僕もハーフパンツにサンダル履きだったのでなんとか少しは見れる格好に着替えて妻と2人で車に乗り再び施設に向かった。

妻は口数も少なかった。それが今は良かった。

コンビニにより、これからの仕事に備えてモンスターのピンクを一気に飲み、少し早いけど施設に向かったら、もうすでにタクシーが到着していて焦った。

慌てて車を停めてロビーに向かい、ロビーのすぐ横のホールで医師の検視の結果を聞くことになった。

僕も前から知っている先生で、厳しいところもある先生だったので、待たせたことに立腹されてるのではないかと心配しながら話を聞いていた。

先生の話によると、死因は心不全ということだった。とても救いになった言葉が、苦しむ時間も少なかったと思うよ。って

たとえ嘘でも良かった。素直に信じることにした。

先生は弟が熱心に母の介護をしているのを知っていたので、とても悲しんでくれていた。「介護を頑張ってるの知っていたからね、本当に残念だよ」と言い手を握ってくれた。

さっき弟と別れてからこれからはもうしっかりとしなきゃいけない、喪主は人前で泣いてはいけないと聞いていたのだが、やはり涙が溢れてきて我慢できなかった。妻を見たら妻も泣いていた。

先生にお礼を言い見送ってやっとお母さんのところへ行けた。

妻も母と対面して言葉をかけてくれた。お母さん、お母さんって。

それを横で見てて、あぁ、本当にお母さん死んじゃったんだなって。

ここで重要なことを言うけど、この時僕はいけないこと、不謹慎なことだとは思うけどお母さんの遺体の写真を撮った。多分僕がこのブログを読んでいる他人だったらありえないだろ、なに考えてるんだと思うと思う。

僕も罰当たりだと思ったけど、撮った。

これが結果的に良かったと思う。なんでいけないのか、お母さんの最後の顔を目蓋の裏だけで保存できるか、最後の顔は目蓋だけに焼きつけないといけないのかな

俺変なのかな。だけど今も撮って良かったと思う。

多分消す事はないし今でもたまに見返してる。

勿論他人には絶対みせないけどね。

大切な人の最後の顔を残しておくこと悪いことではないと思う。

 

そしてこれも驚いたんだけど、まだ弟がいた段階で施設の職員さんに葬儀屋さんの話をしていて施設から連絡をしてくれるということだったんだ。

これも今思えばすごく助かったな。

どん底の気分で自分で調べて葬儀屋さんに電話をかけて、とか無理。さらに僕のことだからそこで値段を調べたりする、少しでも安いところとか調べてたんじゃないかなとか思うとお母さんが死んだのにそんなところ気にしてる自分が嫌になってたと思う。

 

施設の人の話だと6時30分頃葬儀屋さんが来るということだったので、それまでお母さんの部屋で過ごすことになった。

お母さんと妻と3人で部屋にいると、まだ部屋で面会できてた頃のこととか思い出したり、お母さんが最後に見てたであろう施設の天井を見つめたりして。

でもやっぱりタバコがすごく吸いたくて、トイレもすごく行きたくて、でもお母さんを1人ぼっちにはさせたくなくて妻と交代で吸いにいって

あそこで見た光景は生涯忘れないと思う。

すごく綺麗な部屋で無駄なものが一つもない、だけどそれがたまらなく寂しいんだ。

 

葬儀屋さんが到着し、お母さんのご遺体を運ぶ準備にとりかかるのだが、ここで仕事なのだろうが一番の丁寧なお悔やみを言われ、有り難かった。

お母さんを葬儀屋さんの車に乗せ、僕もその車に乗りお母さんに手を置いて弟の自宅まで案内する。

妻は近くのパーキングに停めて合流するということになった。

 

ここでもう一度重要なことを書くけど、弟の家は道も狭く入り組んでいる所にあって、少し大きい車だとなかなか近くまで行きづらい所にある。

葬儀屋さんも近くまで来て、これはマズいと思ったのか、ある提案をしてきた。

うちの会社の隣に安置室があるので、そこで葬儀までご遺体を安置したらどうですかというものだった。

これからお通夜や告別式、火葬のことを考えるとデカすぎる霊柩車はここには来れないかなと考え一瞬じゃあ安置室でという考えがよぎったんだけど、すぐに思い直して、すみません、お母さんと最後にお家で一緒に過ごしたいんですって言ってなんとか家まで連れて帰ってこれた。

これがとても正しい選択だった。

本当に良かった。

理由は長くなったので次に書きます

ので、ここで一度区切ります。

とにかく忘れたくない

忘れはしないとは思うけど、記憶が鮮明なうちに残しておきたい。

8月の終わりの月曜日だった。
僕はその日休みを取っていた。日曜日、月曜日の連休だった。
その日何をしてたかというと子供と遊んでた。
母は介護施設に入所していて、世間はコロナの影響で、面会もガラス越しでしかさせてもらえなくて。母は喋れない。高次脳機能障害で意思ははっきりしているんだけど、自分の言葉で伝えることができない。感情失禁と言って、嬉しくても悲しくても子供みたいに泣く。自分で歩くことも出来ないので基本介護ベッドに寝たきりで移動は車椅子。
そんな状態なので面会に行くと施設の職員さん達に余分に手間をかけさせてしまうと思って気が引けてしまうというのはあった。
今から思えばそんなこと気にせずもっと会ってあげたかったよ。
その先週の日曜日妻と子供と面会に行ったのが生きているお母さんに会った最後の日だった。
なんで2連休もしていて会いにいかなかったのだろう。と、とても、とっても後悔している。
 
2連休も終わり、次の日の仕事に備えて23時頃には布団に入っていた。なんかいまいち疲れがとれず明日の仕事憂鬱だなんて考えながら寝たのを覚えてる。
日付が変わり1時過ぎ、その時間に鳴るはずのない携帯が突然なり、ただ、横で子供が寝てるのに起きたらどうすんだよという怒りで目を覚まし携帯の着信を見たら弟だった。嫌な予感がした。
その嫌な予感を抑え込むように苛立ちが出てしまった。
普段なら常識のある大人の弟からこの時間に電話が鳴ったということは非常事態なのだろうと咄嗟に察するのだろうが、なぜかこの時は不機嫌な声を出してしまった。なんか、今から思えばもう僕は一瞬で察してしまったんだって思う。
なんで今なの、なんで今日なの、なんでこんなに早いんだよ!って言うぶつけようのない悲しみが、自分の不甲斐なさが、今日会いにいかなかったという後悔が瞬時に溢れ出てきて、しかしなんとか冷静を保たなきゃという理性と喧嘩して自分の中で処理できず苛立ちに変わってしまったんだと思う。
 
電話の弟は酷く動揺していた。
一方で冷静を保たなきゃという複雑な声を出していた。何か要領を得ないやりとりを続けて、1番重要なところの「お母さんが亡くなったかもしれない、今救急車で運ばれてるんだけど受け入れ先が無いから施設に一度戻る」と言われて、何がなんだか分からなかった。
寝ぼけた頭をフル回転させ、今の弟からの電話で希望を持てる所を必死に探して、亡くなったかもしれないということはまだ大丈夫なんだろうと信じたかった。受け入れ先がなくて施設にもどる??今とる最善の行動がわからなくて、とりあえず何かわかったら連絡してって言って一度電話を切った。
切って間も無く今の弟との電話に全く希望が無いことを理解しはじめて背中の下の方からじんわり重いものに頭を引っ張られる感覚がきて呼吸が苦しくなって喉が乾いてバクバクする心臓でまた弟に電話をかけ直して俺も、俺も今行けばお母さんに会えるの?って聞いて慌てて着替えて車に飛び乗りなんだよこれ信じられねぇって車の中で叫んで、お母さん!お母さん!なんでだよ!って叫びながら車を飛ばして15分位で着いた。
今思えばたった15分で会える距離なのになんで毎日行かなかったのかなあ
 
施設の駐車場に車を滑り込ませると救急車が丁度出て行く所だった。お母さんはこれに乗ってたのかな。
中に入るとロビーの所で弟が待っていて、お兄ちゃん、お母さんまだあったかいよって言われて涙が止まらなかった。
急いでお母さんの部屋に行き、本当に死んでるのかっていうくらいいつもと変わらない顔をしているお母さんの身体にもたれかかってお母さん、本当にごめんね、本当にごめんねって泣きまくった。
何を言っても起きないし、反応もないお母さんを見てさらに涙が止まらなかった。
弟が「お兄ちゃんお母さんまだあったかいよ抱きしめてあげて」っていうから顔を触ったら全然冷たくて、これをこういう時はあったかいってことにするものなのかななんて考えながら必死であたたかいところを探したら脇の下があったかかった。
これが後々に大きな意味があることを知った。
あったかいということは細胞はまだ生きていたのだ。耳は最後まで生きているらしい。
長くなりすぎたので一度区切るが、僕は今まで親の死に目に会えないっていうことがどういうことか全然分かってなかった。遺される人が最後に一目会うのがそんなに大事なのかなって。僕の場合は同じ市内に住んでるから今回のような突然死じゃなければ容態が悪くなったら駆けつけられるじゃないかって、いよいよ悪くなってきたらしょっちゅうお見舞い行けてればそれで充分なんじゃないかって。
もちろん会えるに越したことはないけど、こだわりすぎるとこじゃない。って思ってたんだ。
だけど今回分かったことは、死に目に会うって自分のためじゃないんだよな。これから旅立つ人が1人で寂しく旅立たないようにみんなで寂しくないように感謝を伝えてしっかりお別れしてあげられるようにって事なんだよね。
最後の日を無機質な施設の個室で迎えたお母さん。
寂しかったよね、辛かったよね。
息子2人もいるのに1人で逝かせて本当に本当にごめん。ごめんねお母さん。夜に爪切ってごめんね。
 

母を亡くした悲しみに向き合うために

8月の終わりに母を亡くした。

早いもので一月も経ってしまった。

母がこの世を去ってから1人になることもなく、仕事は変わらず忙しいから1人で考えること、ふりかえることが出来ず、悲しみに向き合えてない気がして…


この世に何一つ意味のないことは起きないと思ってる。だとしたらお母さんは必ず僕たちに伝えたいことがあったはずだ。お母さんの死は悲しみ以上に大きな意味がある。

ここでちゃんと向き合っておかないとお母さんが身をもって教えてくれようとしたことがムダになる気がして、何か自分の気持ちを整理して残しておこうと思った。


また、僕の弟は若いうちから母を介護し10年以上戦ってきた。

弟は自分らと同じ境遇にあるヤングケアラーのサポートをしたいと願ってるので、その人達が少しでも助かるよう僕たちの経験を伝えたいと思ってる